銭弘俶八万四千塔

機関管理番号
961-0
分類
工芸
作品名かな
せんこうしゅくはちまんよんせんとう
員数
1基
制作地
中国
時代世紀
中国・五代・10世紀
品質形状
銅製 鋳造
法量
高22.0
銘文等
内壁面線刻「呉越國王/銭弘俶敬造/八万四千寳/塔乙夘歳記」、「安」
所蔵者
奈良国立博物館
 インドの阿育王(アショーカ王)が八万四千塔を造塔したという故事にならって、呉越国王銭弘俶が造塔した銅製の小塔。「銭弘俶八万四千塔」は日本の呼び名で中国では「銅阿育王塔」、「金塗塔」と呼ばれる。塔内の銘文に八万四千宝塔を造立する旨が記されているが、「八万四千」は無数を示す語でもあり、実際にその数の銅塔が作られたか明らかではない。同時代には銅製のほか、銀製、鉄製の阿育王塔も作られた。塔形は屋蓋の四隅に方立(ほうだて)(隅飾(すみかざり))とよぶ馬耳形(焦葉形)の突起を付け、中央に相輪を立てたもので、わが国で主に石造品にみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)と類似する。下方に反花(かえりばな)をあらわした基壇部には各面とも三軀の如来形坐像を配している。塔身(とうしん)は中央に仏龕(ぶつがん)形の区画をつくってその中に本生図(ほんじょうず)をあらわし、四隅の柱の上は迦楼羅(かるら)形とする。屋蓋の方位は外側二面に剣を持つ神将形を、内側面には仏龕をあらわし仏坐像を配している。これらは相輪部、四隅の方立、屋蓋部、塔身の四面の十個の部分を分鋳し、それを組み合わせて製作している。相輪部を欠失、あるいは伝世する間に後補された作品もあるが、中国の出土品をみると七層の相輪が本来の姿である。塔身にあらわされた本生図の内容については諸説あったが、二〇〇八年に中国・南京市大報恩寺遣址(北宋・長干寺跡塔地宮)から出土した七宝阿育王塔の塔身の銘文により、尸毘王救鴿命変(しびおうきゅうごうめいへん)、薩埵太子捨身飼虎変(さったたいししゃしんしこへん)、大光明王施首変(だいこうみょうおうせしゅへん)、須大弩王眼施変(しゅだいなおうがんせへん)であることが明らかとなっている。塔の内部の一面に「呉越国王/銭弘俶敬造/八万四千寶/塔乙夘歳記」と四行の刻銘があり、銭弘俶が国王在位中の乙卯年は顕徳二年(九五五)にあたることから、この年を中心として製作されたことがしられる。銘文とは別に符合とみられる漢字一字の刻字があり、同じ符号を持つ遺例が複数あることから、造塔時の符号と推測される。また『宝篋印陀羅尼経』を奉縣していたといわれる鉤(かぎ)が鋳出されている(ただし、『宝篋印陀羅尼経』を納入した銅製小塔の例は今のところ確認されていない)。『金石契』や『金塗銅塔攷』(乾隆五九年・一七九四刊)に引用される宋・程珌「龍山勝相寺記」によれば、この小塔が日本へ五百基送られたことが記されており、また『扶桑略記』所載の「宝篋印経記」には天慶(てんぎょう)年間(九三八‐九四七)に入唐した西海僧・日延(にちえん)が帰国の際に小塔を将来し、肥前国の国守に送ったと伝えている。福岡・誓願寺が所蔵するものは日延の将来品に比定されている伝世品である。内部の符号は「化」。相輪部は後世に補われたものである。九州では、ほかに太宰府市・原遺跡で方立が一点出土しているが、塔身部分まで完全に伝わる銅製小塔はこの塔のみである。東京国立博物館が所蔵するものは、大正七年(一九一八)に和歌山県・那智経塚から出土した品である。相輪部は鉄製で将来後に補われて埋納されたとみられ、塔身の一部には鍍金がのこっている。内部の符号は「化」で誓願寺塔と同じ符号である。那智経塚は平安時代後期の造営と考えられており、その頃までに銭弘俶発願の銅製小塔が我が国に将来されていたことを示す貴重な違例である。奈良国立博物館が所蔵するものは、中国浙江省・金華万仏塔地宮から出土した銅製小塔(浙江省博物館所蔵)など、中国での出土品と同様の相輪をもっており、相輪まで当初の姿を伝えている。内部の符号は「安」。同じ符号をもつ作例に永青文庫所蔵のものがある。

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